イタリアの正式名称はRepubblica Italiana(イタリア共和国)で、南ヨーロッパに位置し国土は地中海に突き出たイタリア半島とその付け根アルプス山脈の南側、二つの大きな島サルデーニャ島とシチリア島等周辺の島で面積約300,000平方キロ(日本の3/4強)です。
首都はローマでイタリアのほぼ中央に位置し、北はアルプス山脈が東西に走りフランス、スイス、オーストリア、スロヴェニアと国境を接しています。
2002年からEUの単一通貨『ユーロ』が使用されテいます。
以前の通貨『リラ(Lira』との交換レートは
  1ユーロ=1936.27リラでした。

  古代ローマ

伝説では紀元前753年にローマは狼に育てられた“ロムルス”と“レムス”の兄弟によって作られた。
 ロムルスが初代の王と成り、王政が紀元前509年に第7代の王がローマ市民と貴族により追放される迄続いた『王政ローマ時代』。
 王政が廃止され、元老院(貴族と政治家の組織)と市民集会(民会=富裕な市民が中心の組織)による『共和政ローマ』が成立した。
 この時代、国内では元老院は市民集会との対立をうまく乗り切り、対外に対しては領土の拡張政策をとり、
 紀元前272年にはイタリア半島をほぼ統一。紀元前263年からの約1世紀、3次に及ぶカルタゴとの戦いで勝利し、西地中海をほぼ支配し。紀元前1世紀には全地中海を支配するように成りました。

  共和政ローマの終焉

領土が拡大すると統治制度に歪みが生じ、国内でも内乱が発生する等混乱し。紀元前133年護民官グラックスが制度改革で元老院と対立し非業の死を遂げ、
紀元前121年にはグラックスの弟ガイウスも兄の志を継ぎ改革を進めんとしたが元老院と対立し処刑され、オプティマテス(閥族派)とポプラレス(民衆は)の対立は軍事衝突になり、国内の混迷は1世紀に及ぶ内乱状態に発展した。
 内戦に勝利したのはオプティマテス(閥族派)のルキウス・コルネリウス・スッラでした。
スッラの死後マルクス・リキニウス・クラッスス、グナエウス・ポンペイウス、ガイウス・ユリウス・カエサルによる三頭政治になり。クラックスの死後ポンペイウスとカエサルの内戦にカエサルが勝利、終身独裁官となり急進的な政治改革を推し進めた。しかし反カエサル派の元老院議員等により暗殺される。
カエサルの養子オクタヴィアヌスはカエサルの腹心であったマルクス・アントニウスと反カエサル派の元老院議員等に勝利した。その後両者は対立、紀元前31年オクタヴィアヌスはアクティウムの海戦でエジプトの女王クレオパトラと組んだアントニウスを破った。

コロッセオの画像*400x263px

  ローマ帝国の誕生

紀元前27年、オクタヴィアヌスはアウグストウス(尊厳者の称号)とプリンケプス(第一市民の称号)を受けローマ軍の最高司令官になり1世紀に及ぶ混乱に終止符が打たれた。
オクタヴィアヌス(=アウグストウス)は実質、皇帝として統治した、此れによりローマ帝国の誕生と看做される。
 帝国の成立により国内は安定、繁栄がもたれされた。

  バスク・ロマーナ

1世紀は獲得した属州の反乱、内戦に費やされたが、2世紀に入ると五賢帝と言われる治世の下『バスク・ロマーナ』と言われるローマ帝国の最盛期を迎えた。トラヤヌス帝(在位98から117年)の時代版図最大となった。しかし征服地での反乱が相次ぎ、117年皇帝となったハドリアヌスは維持に金、兵力の掛かるアルメニア等の東方属州を放棄し帝国維持に勤め繁栄をもたらした。

  古代ローマ帝国の終り

3世紀に入るとローマ帝国の経済は悪化し、また異民族の侵入で広大な帝国の維持は難しくなって。皇帝ディオクレティアヌス(在位284~305)は共同皇帝による東西分割統治を導入した。
378年皇帝ウァレンスのローマ軍はゴート族とのハドリアノポリスの戦いに破れトラキア地方(バルカン半島東部)を占領された。結果東西ローマ帝国は地域的にも分断され。476年ゲルマン人の傭兵によって皇帝が退位させられ西ローマ帝国は滅亡する。

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  中世からルネサンス時代

中世のイタリアはゲルマン人アラブ人等の侵略、そして国内では小国、公国、王国が乱立相争う状態が続いた。
11世紀になると海運、商業で繁栄する都市が政治的にも独立する都市国家へと発展した。
 ジェノバ、ヴェネチュア、ピサ、アマルフィは海運で、フィレンツェ、ミラノは商業が中心の都市国家として繁栄。

  イタリア王国

19世紀中頃にイタリア各地でフランスに対する独立運動が起こり、『ローマ共和国』が「マッツィーニ」により1848年に成立、これに対し「ナポレオンⅢ世」は軍を送り、「マッツィーニ」「ガリバルディ」等は敗退する。
 1860年のシチリアで反乱が起き、「ガリバルディ」は義勇軍を編成し参戦、シチリアで勝利し、イタリア半島に進軍した。
 一方イタリア半島では「ヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世」指揮のサルディーニャ軍はイタリア統一の戦いを続けていた。
 10月26日、「ガリバルディ」と「ヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世」の会談が行われ、、「ガリバルディ」は「ヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世」をイタリア国王と認め、内戦を回避された。

サルディーニャ王「ヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世」が1861年2月にイタリア統一をなし、翌3月17日『イタリア王国』が樹立されました

日本からイタリアへは「アリタリア航空」が成田、関空からローマ、ミラノ便を運行しています。
 2015年3月関空発着便を休止か。

日本の航空会社を使用する場合、『パリ』か『フランクフルト』で乗り継ぐことになります。
ローマ、フェミチーノ国際空港からローマ市内テルミニ駅にはノン・ストップの特急が走っています。

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