スペインの正式名称は特に定められてはいないが、憲法ではスペイン国(Estado Espana)又はスペイン王国(Reino de Espana)が使われています。
国土は欧州大陸の南西、ピレネー山脈の南、イベリア半島の約80%を占めています。
 また、バレアレス諸島(マヨルカ島等)とアフリカ北部のセウタなどを含め面積は日本の約1.3倍です。

前ローマ帝国、ローマ帝国
    そしてゲルマン系王国

イベリア半島の地中海沿岸地方は紀元前5世紀ごろからカルタゴ(フェニキア人)の殖民地が点在したが、3世紀の半ばローマの勢力が拡大、第一次ポエニ戦争でカルタゴはシチリアを失うとヒスパニア(イベリア半島)の植民地化を開始ハンニバルはヒスパニアを征服するとローマとの戦いを開始、アルプス越えでローマ軍の手薄なイタリア北部からローマに迫るも(第二次ポエニ戦争)、カルタゴはローマに破れ、ローマがイスパニアを属州とした。
ローマの支配は5世紀初めにゲルマン系民族、西ゴート族等が侵入、ローマ帝国の支配は約500年で終わった。
 その後、西ゴート族(西ゴート王国)がヒスパニアを統一する。

   イスラム時代

8世紀初め西ゴート王国は北アフリカから侵入したウマイヤ朝との戦いに敗れ、イベリア半島の北部の一部を除き殆どがイスラーム勢力に征服され、征服地は『アンダルス』と呼ばれた。
10世紀にはイベリア半島ではムデハル(イベリア半島出身のムスリム)が住民の大部分を占めた。

   カタルーニャ君主国

イスラーム勢力はピレーネ山脈を越えフランク王国に侵入したが破れ。801年カロリング王朝のルイ敬虔王はイベリア半島北部、バルセロナをイスラム教徒から奪回し、フランク王国のスペイン辺境伯領とし、後にバルセロナ伯領(=カタルニャ君主国)と成りました。

 アラゴン連合王国

アラゴン王国はイベリア半島北部に残ったキリスト教王国のナバーラ王が1029年アラゴン領を息子のラミロⅠ世に与え、アラゴン王の称号を許したに始まる。
1137年アラゴン王ラミロスⅡ世の娘ペトロニラ女王とバルセロナ伯ラモン・ベレンゲーⅣ世の結婚により連合が成立、息子のアルフォンソⅡ世以降はアラゴン連合王国と呼ばれる。

   カスティーリャ王国

711年西ゴート王国がイスラム勢力により征服され滅亡、西ゴート王国の貴族ベr-ヨはイベリア半島の北部カンタブリア山脈の北にアストゥリアス王国を起て、イスラム勢力に対抗レコンキスタ(再征服運動)の中心勢力に成りました。
 910年にはレオンを奪還し此の地に遷都しレオン王国と成り、レオン周辺の城塞(カスティーリョ)勢力を統合カウティリョ・レオン王国が成立しました・

   レコンキスタ(再征服運動)

北部に残ったキリスト教王国によってイスラムに対する国土回復の戦い(レコンキスタ)はイスラムに征服された直後の722年のコバドンガの戦いで始まったと考えられています。
11世紀にはイスラム勢力はタイファ諸王国に分裂相争う様になり、キリスト教勢力はトレドを奪還、  13世紀に入りコルトバ、セビリアが陥落、グラナダ王国が残るのみになり、15世紀(1478年)グラナダが陥落し約780年のイスラムによるイベリア半島支配が終わった。

   スペイン王国

1469年カスティリャの王女イサベルとアラゴン・カタルーニャ連合王国の王子フェルナンドが結婚、二人の曽祖父はカスティーリャ王ファンⅠ世で又従姉弟でした。
1474年イサベルは異母兄エンリケⅣ世の死によりイサベルⅠ世としてカスティリャ女王に、1479年にはフェルナンドがフェルナンドⅡ世としてアラゴン王に即位しました。
フェルナンドⅡ世の死後、1516年に孫のカルロスⅠ世がアラゴン、カスティリャの両王に即位しハプスブルク朝スペインが成立する。

日本からスペインへは日本からの直行便は現在ないので、通常はパリ、フランクフルト、アムステルダムで乗り継ぐことになります。